2012年5月6日日曜日

「酒井 楢一 インタビュー」

昭和42年の羽越水害――。
村で最も多くの犠牲者を出したのは、石間(いしま)地区である。
今回、被災直後の大変貴重な写真を入手することができた。
その写真とともに、当時の様子を伺った。



とにかく逃げるので精一杯という感じだった


――羽越水害を体験した時の事を教えてください。

雨は(8月)26日からずっと降っていたね。
私は26歳の頃だったかなぁ。
三重県での仕事を辞めて帰ってきてから、ほんの1週間後の出来事でした。
この辺りでは、「土石流」なんて言葉を聞いたことがなかったんですよ。
山の方から土砂が襲ってくるなんて、想像もできなかった。
阿賀野川本流の氾濫だったら、年寄りの人は経験していましたからね。
水がどのくらいまで来たら避難するとか、そういうのはだいたいわかっていたんです。
だから私も阿賀野川の水位に気を配りながら、家の片付けをしていました。

その頃、部落内を流れている沢川の上流では、木々が倒れて川の水をせき止めていた。
だから、沢川の水が流れてこないってことで、みんな不思議がっていましたね。
でも、上の方でダムができて水が溜まっているなんて、その時は誰一人考えもしなかった。


――予想できなかった、というのが今となっては悔やまれますね。

そうだね。
みんな阿賀野川の水位しか気にしていなかったからね。
一度でも「土石流」というものを経験していれば対策も考えられたのかもしれませんね。


――そして、そのダムが決壊してしまったんですね。

あれは明け方前だね。
家では、祖母と父、母、そして私の4人が住んでいました。
1階で片付け作業をしていたら、いきなり“ドーン!”と大きな音がして。
土砂がぶつかり、縁側の扉が破壊されてました。
母親を連れて逃げよう、と思った時にはもう腰くらいの高さまで水が入ってきていました。
まだ夜明け前なので外は真っ暗ですよ。
出たら、母親が流されてしまったんですよね。
私は慌てて手を掴みました。
もしその手を掴めなかったら…。

父親は、祖母と2階に上がって避難できました。
その時は自分の家のことしか考えていなくて、他所がどうなっているかなんてわからなかったね。
ほとんどの人が、高台へ避難した先で、土石流に飲み込まれてしまった。
悲劇だよねぇ…。

 
酒井氏自宅(左)と、隣の家(右)


――避難する時や被災後は、どんなお気持ちでしたか?

とにかく逃げるので精一杯という感じだね。
「ドーン!」ときてから、あっという間でした。
頭の中は真っ白。
夜が明けてくると、行方不明者がいるとか、だんだん状況がわかってきました。
土砂で49号線は遮断されているから、石間そのものは孤立した状態でした。
丸一日くらいは連絡がまったく取れなかったんじゃないだろうか。
怪我人は戸板に乗せて隣町まで運んでね。

その後はようやく自衛隊も来てくれて、村の消防団と遺体の捜索にあたりました。
重機で土を掘るわけだから首や足が取れたりして…。
どこに埋まってるのかもわからないし。
大変なんてもんじゃなかったね、あれは。

 
村民消防団・自衛隊必死の遺体捜索

――この水害の体験を、三川小学校の児童にも語る機会があったそうですが。

はい。
私が区長をやっていた時に、小学校の先生がいらっしゃって。
是非、水害の事を子供たちに伝えたいと、依頼を受けました。
6年生になると、「羽越大災害」を勉強して文集を作ってたみたいでしたね。
それからも3年間くらい、年に1回、小学校へ行ってお話をさせてもらいました。
みんな真剣に聞いてくれてましたよ。

 
落ち着きを取り戻した上の沢川(左)、山から土砂となって運ばれた大きな石(右)

 
8.28水害殉難者告別式

――この悲劇を風化させないために、子供たちにもしっかりと伝えていかなければいけせんね。
貴重なお写真のご提供、インタビューのご協力、どうもありがとうございました。




酒井 楢一
1941年生まれ
新潟県東蒲原郡阿賀町(旧三川村)出身
26歳の時、羽越水害を体験
1999年から2010年まで石間地区の区長を務める