2012年6月5日火曜日

「吉井 多美子 インタビュー(前編)」

合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。




私は「アッシー君」を務めていました(笑)


――山本和夫先生についてお話を伺っていきます。

山本先生は福井県立若狭歴史民俗資料館の館長をされていました。
その頃、月に1回は小浜に来られていましたので、私は「アッシー君」を務めていました(笑)。
車を運転して、先生とあちこち行きました。
そのうちに私は、作曲をするようになったので。
“次に来る時までに曲を作っておくよう”と、山本先生にはよく言われてましたね。


――吉井さんは山本先生と特に親しかったとお聞きしておりますが。

病床からもね、しょっちゅう電話がかかってきました。
“なんの用でしょうか?”と聞くと、
“用がなかったら、電話したらいかんのかー!?”と(笑)。


――ははは(笑)。お茶目ですね。

亡くなられる前もね、電話で“もう死にそうや…。”と言ってね。
山本先生は、“君は、来るんか?葬式には行かないけど、見舞いには来るって言うたやろ。”って。
“そうですね、ほんならお見舞いに行きます。何か食べたいものありませんか?”と聞いたら、
“ふたつある。”っておっしゃるんです。
“ひとつは鮎や。そこら辺の下流の鮎なんか食べられんぞ。ワシは水の綺麗なところで育ってるから、天然の鮎でないと。”(笑)。
それから“もうひとつはよもぎや。それも標高800メートル以上のところで摘んだよもぎで作った草餅が食べたい”って。


――なかなか細かいご注文でしたね(笑)。

私も“そうですか、わかりました。”と言ったものの、鮎はまだ解禁日になってないし(笑)。
よもぎも、池河内に行ったらきっと標高800メートルくらいあるかな、と思っていたけど(笑)。
主人に聞いたら“そんなとこ小浜にあらへんぞ~!”って(笑)。


――それは困りました(笑)。で、どうされたんですか?

友人に山の会の人がおられたから、摘んできてもらったんやけれど。
そんなにたくさん採れなかったので、うちの畑で採れたよもぎも加えて作りました。
近所の奥さん方にも来てもらってね。
鮎は、昨年冷凍してたのがあるのを思い出して、保冷剤を入れて送りました。
都立府中病院にて先生は、“はぁ、はぁ…”としんどそうだった…。
身体をさすってあげました。
“がんばれ、がんばれ”って。
他にも、女の人が何人も来てました。
だから順番待ち(笑)。
私もあんまり長くそこにはいられなかった。


――おモテになったんですね、先生は(笑)。

で、結局ね、鮎や草餅は食べてもらえなかったのかな~。
すぐに倒れられたみたいで…。
でもお棺の中には入れていただきました。
お葬式にも女の人がいっぱい(笑)!

<後編を読む>




吉井 多美子
1946年生まれ
京都市出身
小浜病院ボランティアすみれの会、若狭福祉会、
福井県立若狭歴史民俗資料館友の会会員