2012年8月1日水曜日

「中嶌 哲演 インタビュー」

合唱組曲「阿賀野川」の詩の世界観を深く読み解くには、まず作詩者山本和夫という人物を知る必要がある。
1907年(明治40年)福井県遠敷郡松永村(現小浜市)に生まれ、生涯ふるさとを愛した。
そんな山本氏と親交の厚かった若狭の人々に、その人柄や思い出などを伺った。
偉大なる文学者の遺伝子は、確かにその地へ受け継がれていた――。



パンツ一丁にランニング姿(笑)。


――山本和夫先生についてお話をお聞かせください。

山本先生のお宅は、ここ明通寺の檀家さんなんですよ。
だから山本先生のお父さんやお母さんの事も私は知ってます。
お父さんはお髭を生やした方で、村長さんも務められたり、学校の先生もされてたしね。
お母さんは、もう何でもできた人なんでしょうね。
糸車を回したりね、和裁なんかもできたでしょうし、すごく矍鑠としたお丈夫な方でしたね。
山本先生の一番で、最大の味方はお母さんだったんじゃないですかね。
包み込むようにして、山本先生をあったかく見守られたり、常に味方になっておられたんじゃないかなぁと思いますね。
先生の初期の詩集に、お母さんのことをテーマにしている作品もいくつかありますよ。
特に、お母さんの臨終を詩にされてるのなんかは、その中でも絶唱のひとつだと私は思っているんですけど。


――山本先生との思い出はありますか?

そうねぇ…。
先生を意識し始めたのは…、もう小学生時分から。
必ず休みのたびに帰って来られててね。
お寺へも訪ねて来てもらったり、気さくに子供たちにも声を掛ける先生でした。
もう、夏休みなんかに帰って来られると、パンツ一丁にランニング姿でね(笑)。
下駄をひっかけて、カランカラン村の中を散歩されてました。
私はこの散歩姿を思い出しますね。

私が小学校5、6年くらいの頃、将来の夢を聞かれた時に、“山本先生みたいな詩人になりたい”と答えたらしいのね。
昔は本当に田舎村だったから、休みのたびに東京から帰って来られる、先生のような人が新鮮だった。
児童文学の本も小学校に寄贈されたりね。
一様的なこの村の生活とは違った、何かこう…新しい風を、生まれ故郷に運んで来てくださった。
パンツ一丁にランニング姿の先生だったけども(笑)。
そういう感じの人として私は受け止めてたんでしょうね。


――山本先生は「お酒好き」とお聞きしましたが。

私はそんなにお酒は嗜まないので、先生と酌み交わしたっていうのはあんまり記憶にないんだけど。
子供の頃、たまたま私の両親と飲んでた時にね、面白いお話をされてた事がありましたね。
徳利を持ち上げながらね、“人ってそれぞれ考え方があるんだよ”と。
“この徳利の中に入ってるお酒を、「あ~、もうこれだけしか残っていない」と惜しみ惜しみ飲む人もいれば、
「まだこんなに残っているのか」という捉え方をしてお酒を楽しむ人もいる”
“同じ量に過ぎないんだけども、人によってそういうふうに捉え方が違うものなんだ”と。
“人の人生観も似たようなところがあるよね”って話されていました。
面白い話だなぁ、と印象に残ってますよ。


――例えが面白いですね。

そうなの、やっぱり詩人ですからね!
もう、先生の詩想というのはね、自由自在!古今東西!
ありとあらゆる分野に四通八達している。
イメージや言葉が自由に繋がり合ってね。
例え話も絶妙なものを出してくる。


――合唱組曲「阿賀野川」の詩の一節で、阿賀野川とドイツのライン川を重ね合わせるシーンがあります。

そうそう。
山本先生のあの自由自在さとか奔放さとか、それでいて大らかで深い味のある拡がり方っていうのは、
やっぱり中国文学、東洋文学・思想を大学時代に専攻された事が大いにベースにあるんだと思います。
老荘思想が専門分野だったから。
もちろんその枠に自分を閉じ込めるような先生ではなかったけどね(笑)。




「阿賀野川」はまるで交響曲(シンフォニー)ですね。


――こちら明通寺には、山本先生のお墓があるんですよね。

先生のご遺志も汲みらがらでしょうけど、息子さんが主としてお墓を建てられました。
山本先生が作られた、仏様の陶板を墓の上にはめ込んだりね。
墓石に刻まれた「山本和夫」という文字も、先生ご本人のものです。


――戒名というものは付いてないんですね。

最近では戒名に拘らない、いろんな葬り方が広まりつつありますね。
一番古い所では、森鴎外の墓が「森林太郎墓」とだけ書いてあって、戒名はないのですが。
頭の固い他のお寺の坊さんだと“戒名を授けない墓は預からない!”と対応する所もあるかもしれないけど。
私は先程言いましたように、少年時代より山本先生の感化も受けているから(笑)。
「自由であって良い」と思ってます。


――なるほど。
合唱組曲「阿賀野川」についてはいかがでしょうか?

いつ行きましたかね、新潟に…。
あの時、阿賀野川を見に行って舟下りもしましたね。
将軍杉も見ましたよ。
「阿賀野川」はまるで交響曲(シンフォニー)ですね。
山本先生は自由闊達な詩をいっぱい書いておられるけど、その先生のいろんな側面が総合されているような詩の構成は、
ひと色だけじゃなく、或いは形式ばったカチカチの構成詩でもないでしょ。
ゆったりと、大らかに何もかも飲み込みながらね、滔々と流れていくような、山本先生に相応しい交響曲(シンフォニー)的な詩だなぁと感じました。

小中学校の校歌も沢山作詩されています。
先生は必ず現地へ行ってフィールドワークされているんですよ。
実際の自然の風景、その風景も1シーズンだけじゃなくって、四季折々の風景をキチンと踏まえられているし。
単に、現在の人々と自然の関わり合いだけじゃなく、地域にずーっと根付いてきた歴史的な変遷も辿って今の姿がある、という事。
子供たちの歌に、未来に向けての展望も語っていますね。
そういうふうに、過去、現在、未来の時間的、歴史的視点がバッチリ納まっている。
先生が作詩される時のこういった作法は、「阿賀野川」の場合はもっと交響曲のように拡大された形で構成されていると思います。


――最後に、中嶌さんにとって「山本和夫」とは?

う~ん…(笑)。
「大人(たいじん)の風あり」…。
これは東洋思想や東洋文化の中で使う言葉なんですね。
大らかで、ありとあらゆるものを飲み込み知恵に溢れているんだけど、かと言ってそれをひけらかしているわけでもないしね。
とにかく村へ帰って来られると、子供もお年寄りも若者も…本当に無差別平等に声を掛けられていた。
先生は詩人だったから、ふるさとの道端に咲く草花にまで、たぶん声を掛けられていたと思いますね。




中嶌 哲演
1942年生まれ
福井県小浜市門前出身
明通寺住職